元々ブログも書いたことのない私が、何故こんなことをするようになったのか・・・?
根底にはある想いがあります。
幼少期から人生山あり谷ありを経験し、紆余曲折しながら全ての体験を今に活かし、振り返れば「無駄なことはない」と思えるようになりました。

管理人のプロフィール

幼少期〜高校生時代

幼少期〜小学生時代
田舎町の次男として生を受ける。
病弱だったらしい(笑)

両親が共働きだったため、幼少期は母親が働く会社の託児所?のようなところで過ごし、その後は保育園に入園。
物づくりが好きな子どもだった。

小学校入学前の1年を幼稚園に入れてもらい、他の子ども達との協調性を学んだ。
ほとんど記憶はないが、あまり目立たない普通の子どもだったと思う。

小学生になると、ちょっと活発な子どもになり、学級委員長になったり、バスケットボール部のキャプテンをするようになる。
気付いたら、いつも集団の中心にいるようになる。
中学生時代
校内テストでは国語以外は100点(平均点98点)しかとったことがなく、文武両道の神童として育ったので、すれ違う知らない人に声をかけられるような子どもだった。

中学生時代はバスケットボール部に入部したが、健康上の理由で団体練習が無理でドクターストップがかかる。
そこで、個人競技の陸上部に編入し、100m走、110mハードル、走り高跳びを選択。
朝の授業前や昼休み時間は、毎日友達とバスケットボールをやって汗だくになっていた。

そして、授業中はほとんど「先生の許可を受けて」寝ていた(汗)。

Why?

田舎町の学校だったので、学力はそれほど高くなく(だから毎回100点をとれたのだが。。。)、高校で進学校へ進学するためには学校の授業では無理だった。
そんな理由から、先生から「あなたに合わせて授業はできないので、自分の勉強は自分でして頂戴。寝てても良いから。」というお墨付きをもらっていたのである。

したがって、私の中学時代の生活は
6:00〜7:00 起床、家族と朝食
7:00〜19:00 登下校、学校生活(睡眠)
19:00〜21:00 家族と夕食、温泉
21:00〜6:00 家族の就寝と同時に自宅学習開始
という感じで、昼と夜が完全に逆転した生活をしていた。

良いか悪いかは別として、
自分の置かれた環境でできることはそれしかなかったのである。
高校生時代
高校は無事に兄が行きたくても行けなかった県内一の進学校に合格し、兄のリベンジを達成。

兄は当初別の高校に電車で通学していたが、車内でカツアゲにあったので、私は初めから学校近くで下宿するようになる。

育ち盛りの子どもに下宿のご飯では足りず、カセットコンロでモヤシを炒めて空腹を満たしていた。
両親が心配して毎週末に来てくれて、外食に連れていってくれた。
あの頃の思い出は鮮明に覚えている。

その頃、今のパソコンの前身であるPC-88やPC-98に触れ、ソフトウェアの改造などに興味を持つ。
自分の部屋で毎夜毎夜「大戦略」というゲームの改造をしていた(笑)
今では様々なツールがあるようだが、その走り?をしていた。

高校では陸上部に入部したが、間もなく生徒会に誘われ、卒業するまでずっと生徒会活動に追われる。
文化祭と体育祭が一緒になった1週間続く伝統の学祭を成功させるために、学校に泊まり込みしながら準備をしたので、終わった時にはもの凄い爽快感だった。

今にして思えば、「生徒会をしていなかったら、どんな人生になったのだろう?」と思うほど、勉強をそっちのけで生徒会活動をしていた。

 

大学受験失敗〜サラリーマン(本州)時代

受験失敗〜就職〜老人時代
歴代の局長は早稲田大学への学校推薦入学が既定路線だったので、受験勉強をする必要もなかったのだが、家庭の経済的理由で私立大学(ましてや東京)への入学は断念。

この時に、「経済的理由で夢を諦めることのないようにしよう」と決意。
お金への執着はこの時に生まれたのであろう。

その後、医学部を目指して受験をするものの、見事に失敗。
浪人するお金もないので、親戚の家の子どもの家庭教師をしながら、住み込みで鳶職をするようになる。
これはこれで二度とできない経験だったので、今にして思うと貴重な体験であった。
人生最初の挫折である。

12月頃になり、積雪ともに鳶職の仕事がなくなったので、実家に戻り受験勉強を始める。
受験勉強期間2ヶ月。
しかし、世の中そんなに甘いものではなく、再び受験失敗。

親に「どこでも良いから入学して!」と言われ、困り果てる。

大学受験には願書が必要だが、当然願書はない。
しょうがないので、兄が通っていたとある国立大学の二次募集願書を急いで送ってもらい、願書を提出して合格。
当時は共通一次試験結果だけで、二次募集の合否が決まった。
しかし、喜びは全くない。

人生二度目の挫折である。
大学生時代
元々志望校ではない大学に入学したため、もちろん勉強をする気は全く起きず、今思えば講義を受けた記憶も、試験を受けた記憶もほとんどない。

毎日毎日アルバイトに明け暮れた大学生活であった。

最初のアルバイトは「ミスタードーナッツ」の店員。
深夜から朝までのアルバイトでそれなりに楽しかったが、飲食店の実態を知ることになり、しばらくドーナツは食べたいと思わなくなった(笑)

その後、学習塾講師の先輩に誘われ、「塾講師」のアルバイトを始める。
これが、今の自分を作る転機となった。

この当時の塾講師アルバイトは、実際の授業前の「勉強会」と称する先輩講師前でのDEMO授業が必須であった。
それが毎週深夜から朝まで続き、もちろん無給である。
今の時代ならパワハラとか言われて大問題になることだが、当時はそれが当たり前であり、先輩が後輩をいじめる場でもあった。

そして「飲み会」
後輩がゲロをするのが先輩達の酒のつまみであった。
今考えれば、よく死人が出ずに終わったという感じである。
しかし、そこで鍛えられた私は「滅多に酔わないコストパフォーマンスの悪い男」に変貌するのである(笑)

こうして、数十人〜数百人の前で授業をすることに慣れてしまったため、セミナー講師も緊張はしない(人前に出る前までは緊張しているw)。
これが、今の特技を作った原因である。

特技を身に付けた!
・人前で話す
・酒を浴びるように飲む

また、将来はPCの時代が来ることを先読みし、当時の金額で120万円の学生ローンを組んで、最新のPCを購入し、PCの勉強をするようになっていた。

特技を身に付けた!
・PC操作ができるようになった
サラリーマン(本州)時代
大学時代は「橋梁研究室」に在籍していたため、教授の推薦で東京の大手橋梁メーカーに就職することとなった。

最初の1年は全国各地の事業所を同期(32名)で周りながら、研修を行った。
東京、神奈川、栃木、愛知の事業所を転々としながら、会社のことを学んでいった。

その間、同期との親睦も深めていくのだが、研修中に起こるある事件で「人間不信」に陥る。

それが原因で拒食症になり、体重はみるみる減っていき(今なら羨ましいが・・・)、ついには自殺まで考えて深夜の山奥の滝のそばまで来ていたこともあった。

ある人の支えで、なんとか1年でそれを乗り越えることができ、仕事に復帰。

同期の中でも物怖じせず、臨機応変になんでもこなしたので、普通は中堅の設計士が派遣される大型プロジェクトのJVに半年おきに転々と参加しながら様々な設計に携わる。

首都高速、名古屋高速、阪神高速、本州四国連絡橋公団などの技士と打合せを重ねつつ、相手を如何に納得させる資料を作るかを学ぶ。
この頃は新しい発見ばかりで仕事が一番面白い時期であった。
自宅に帰ると毎日0:00を超える日々を5年ほど続け、心身ともに疲弊していた時に、上司が部下にとった態度に嫌気がさし、いつか退職することを決意。
今思うと若気の至りだったが、今の自由な生活に繋がるので、結果的には成功だったと思う。

特技を身に付けた!
・プレゼンテーション資料を作れるようになった
 

結婚〜離婚後

結婚〜離婚
どん底期を支えてくれた彼女との結婚を機に、生活を落ち着かせようと思っていたところに、単身赴任の多い企業から単身赴任のない企業(建設コンサルタント会社)にヘッドハンティングされる。

マンションを用意され、係長待遇での転職であった。
最先端の設計から地方の普通の設計に変わったので、特に刺激もなかったが残業も休日出勤もあまりなく、のんびりとした生活を送っていた。

しかし、4年目にとんでもない事件が勃発。
課長に昇進し、何事もない日々を過ごしていたが、ある日突然会社が過去に設計した物件が会計検査の対象になり、設計ミスが発覚。しかも2件同時。
1件だけでも対応に大変なのだが、同時に2件。
しょうがないので、課長2名でそれぞれ1件ずつを対応した。
約半年間午前様の仕事をこなし、休日返上で、私が対応した物件は修正設計で何とかなりましたが、もう1人の課長が対応していたもう1件は途中でキブアップ。
途中から私が引き継ぎ、これも修正設計と補償工事で何とか対応。

心身ともに疲れ果てていたある朝に妻に突きつけられたのは、突然の「離婚届」。
それまで喧嘩もしたこともなく、青天の霹靂とは正にこのこと。
半年間家庭を放置したいた間に色々あったようです。
会計検査対応もまだ終了しておらず、公私共にどうにもならない状況に。
妻の目つきが正常ではなく、このまま放置できないので、週末に片道8時間の妻の実家に単身で訪問。
「落ち着くまで実家に戻して欲しい。」と両親にお願いしたら、「うちの長男も浮気が嫁にばれて離婚協議中でそれどころではないから、そっちで何とかしてくれ。」と。

どんな親だい!

落ち着くまで別居も考えたが、色々検討した結果、離婚することに。
幸い2人の間に子どもはいなかったが、貯金も全て使い果たされ、預金通帳はゼロに。
慰謝料も貰わず、子供もいなかったため、そのまま円満に離婚することとした。

人生三度目の挫折である。
離婚後
ここまで前置きが長くなったが、これまでの紆余曲折と離婚後の経験が今の【Zero-One Project】の根本を作ったことになる。

自分が離婚するまで気付かなかったが、離婚してみたら自分の周りに小さな子どもを抱えたシングルマザーが沢山いる事に気付いた。

彼女達は子供を託児所に預けたり、児童館に預けたりしながら、限られた時間、限られた職種で生活をしていた。
男性で子どももいない自分には想像もしなかった環境の中で、一生懸命生きている姿に心を打たれた。

朝、子どもを児童館に預けて保険の営業に行き、夕方迎えに行って連れ帰り、その後も遅くまで子どもと一緒に営業回りしたり、資料をまとめている生保レディー。
同じく、子どもを児童館に預けて会社に通勤し、夕方迎えにいくパートタイマー。
その他にも、あの人もそうだったのか、この人もそうだったのか、というように身近に沢山いました。

その苦労を目の当たりにした私は、単純に「在宅で自分でできる仕事を創生すれば、問題を解決できるのではないか?」「政府ができないなら、自分の周りだけでも自分で何とかできないか?」という想いにかられた。
それからは、在宅で子どもの面倒を見ながら、時間や場所に縛られずにできる在宅ワークがないかどうかを考えるようになった。
これまで、普通のサラリーマンしか経験したことのない私にとっては全く未知の世界だったし、良いアイディアが浮かぶ筈もなかった。

インターネットで色々と調べていると、甘い言葉で誘惑するセールスレターが沢山あり、「これ本当か〜?」というものがほとんどであった。
しかし、自分で体験してみないと何事もわからないので、知らない世界に飛び込んで自分で体験してみることにした。

それが、これまでの人生を180度変えることになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
アフィリエイトとの出会い
そこで在宅ビジネスのことを調べた結果、辿り着いたのが「アフィリエイト」であった。

ブログも書いたことのない私だったので、先ずは自分がその仕組みを学び、それを伝えるために入ったのがアフィリエイト塾であった。
かれこれ10年近く前のことである。

塾で学び始めて、レンタルサーバー、独自ドメイン、メールマガジンなど、それまで知らなかったことを学び、インターネットの可能性を感じたものであったが、そこに大きな落とし穴があった。

私が学んだのはいわゆる「情報商材」という商品を扱うアフィリエイトであった。
アフィリエイトは「自分の気に入ったものを他人に紹介して、紹介料を得る」というものであったが、そもそも「情報商材」には実現性の低い詐欺まがいのものが多く、とても他人にお勧めできる商品はほとんどなかったし、実際に「初めから詐欺目的のもの」もあった。

泉○司やら蝶○舞やら、数え切れない程の詐欺まがいの人が暗躍する時代であった。
今でもやってるらしいが、ネットで叩かれ昔ほど影響力は無くなったようである。

中にはいくつか本当に良いものもあったので、それを紹介したことはあったが、通年して紹介できるほどのものはなく、安定して収入を得ることはなかった。
いつしか、「アフィリエイトをしないアフィリエイター」と呼ばれるようになる。

しかし、私の目的はアフィリエイトをすることではなく、在宅ビジネスの手法を学ぶことであったので、アフィリエイトのために必要なノウハウは後に活かされることになった。

同じアフィリエイト塾に在籍していたPC操作が苦手な年配の方や女性の方を始めとする仲間は、PC操作や塾で出される課題に全くついていけなかった。
そんな中、塾からは東京での合宿レッスンの提案。
入塾代だけでも数十万円かかったのに、合宿レッスンでも数十万円。
しかも、北海道から東京に行くには、交通費、宿泊費は別途自費がかかるため、とてもではないが払える金額ではない。
元々、お金の余裕がなくてアフィリエイト塾に入った人達なので、これ以上の出費は厳しい。

よって、北海道のメンバーのために東京へ行かなくても良いように、課題をクリアするためのオフラインセミナーをボランティアで開催するようになった。
 

仮想通貨で天国から地獄

投資家へのシフト
アフィリエイトのボランティアセミナーを開催して数年。
大きな壁にぶち当たった。

情報商材のセールスレターには「誰でも簡単にできる!」と書いているが、「ほとんどの人には難しく、できる人はほんのわずかな人だけ」が実態であった。

「このままでは無駄な時間を費やすだけ・・・」

そう感じた私は、どうすれば良いのか悩んだ挙句、あるご縁であった投資家から聞いた一言に衝撃を受けた。

「投資は勝つも負けるも結果は一心同体」

確かに、アフィリエイトには個人のスキル差が生じるが、「投資」は皆んなが同じものに投資したら、勝つにせよ負けるにせよ、皆んな同じ結果になるのである。

当たり前といえば当たり前の話だが、その頃の私には「眼から鱗」の言葉であった。
Rippleとの出会い
「投資先さえ間違わなければ、皆んなが同じ結果になる」というのは、私の悩みを解決できそうな言葉だった。

そこで、「何に投資すれば良いのか?」「お金のない人でも小金持ちになれるものはないのか?」ということで探し当てたのが暗号資産(当時の仮想通貨)であった。

2014年からBitcoinとRippleに注目し、費用対効果や将来性を考えて選択したのが、当時ほとんどの人が注目していなかったRippleであった。

結果から言うと、2014年当時60,000円程度だったBitcoin(BTC)が約37倍の220万円になり、0.5円程度だったRipple(XRP)が800倍の400円になった(2017年の年末から2018年の年初にかけて)。予想は的中した。

更に当時はスキャルピングで簡単に増やすことができたので、半年で元手10万円10倍の100万円になっていたので、これほど簡単に資産を増やせるものはなかった。

100万円がそのまま残っていれば8億円になっていたのであるが、またまたある事件が勃発する。
ハッカーとの闘い
当時はまだまだ仮想通貨に関するセキュリティーが甘い時代であった。

その日もトレードを行い、毎日数%の利益を上げていたのであるが、ついつい取引所の名前を語るフィッシングメールをクリックしてしまったのである。

その結果、気付いた時には知らないアドレスに送金されてしまっていた。
結果論であるが、ハッキングされていなければ最大8億円をハッキングされてしまったことになる。

暗号資産は増やすのも簡単だが、無くすのも簡単である。。。。

実際に失くした元金は10万円だったので、生活に困ることはなかった。
失くしたものはまた増やせば良いので、暗号資産を色々学び始める。
 

日本史上最大の詐欺コイン?で学ぶ

きっかけ
続く。。。
途中経過
続く。。。
集団和解交渉
続く。。。

 

そして現在。。。

海外企業とのコラボ
続く。。。
そして関東へ
続く。。。
ZERO-ONE PROJECTスタート
続く。。。

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